太宰『斜陽』感想と考察 他人の死の選択を否定する権利はあるか

その他日本人作家

どうも。

今回はいつもと少し違った雰囲気でお届けします。というのも、太宰治の『斜陽』を読んでどうしても一人では答えにたどり着けそうもない(答えなんてありそうもない)問題に出会ったからです。

「私たち人間に、自ら死を選ぶ権利はあるのか、ないのか」

「死を選んだ人間をとめようとする 権利はあるのか

このふたつです。主人公の弟の直治が姉への手紙にこんな意味のことを書いていました。

日本における自殺の多さが話題になるこの時代に、考えるべき問題な気がします。

今日ここにしめすのは、きょうこの瞬間の自分なりの考えです。今後みなさんのお言葉をいただいて変化していき、いつか納得いく答えが見つかればと思い、触れるのがはばかられるような内容ですがあえて世に出してみます。

死を選ぶ権利はあるか

人間には当然「生きる権利」がある。ここは疑う余地がないように感じます。少なくとも現代日本では。

「生きる」と常にともに存在するのが「死ぬ」です。ここで直治が主張するのは、「生きる権利が認められるのだから死ぬ権利も認められるはず」です。

ただしこの死ぬ権利には、但し書きが付きます。「ただし、母親が生きているうちは、自分の死が母をも殺すことになり得るためその権利は留保される」

さて、この理論、いかがでしょうか。どうも小生には、間違っているようには思われないのです。

いま自分が死ねるかと聞かれると、できない。それはやっぱり親より先に死ぬのは、産んでくれた人を悲しませることが躊躇われるから。

数日考えてみましたが、どうもそれ以外に他者の死の選択を否定する絶対的な理由が見つかりそうもないのです。

「働かなくては生きていけない」というのがこの世界ですよね。これは、「働いてまで生きていたくはない」という発想もまた可能にするのではありませんか。知らんけど。(小生がそう思っているかは置いておいて)

この前提を覆せるような考えを、どなたかお持ちではありませんか。

ひとの死をとめる権利はあるか

友人の場合

いま、一番の友人が「死ぬことにした」と告げてきたとしましょう。

どうしますか????? 自分なら、おそらく止めるでしょう。大切な友人を失うのは、大きな痛みとなるはずですから。

しかし、ここでひとつ考えなければならないことがある気がします。

はたして自分には、その友人が死を選ぶ原因となったものを取り除くことができるのか。

例えば、その友人の死の理由が上に書いた「働いてまで生きていたいとは思わない」だったとしましょう。その友人の死をとめるために、自分は一生(或いは働きたくなるまで)その友人を養ってあげられるのか。また、そうしてあげたいのか。

そうする覚悟がないのなら、止める権利は果たしてあるといえるのでしょうか…

しかし、上に書いた親に関する但し書きを少し敷衍してみるとこうも考えられるかもしれません。

親の死ぬ前に自分が死ぬのは、親を死なせるかもしれない、つまり、他人に死を選ばせるほど傷をつけてしまうのかもしれないから、死ぬ権利は留保。

この考え方が認められるのならば、友人はその権利の行使を我慢しなくてはいけないとも考えられるような気がします。知らんけど。

というわけで、相手が友人である場合、「ひとが選択した死という道に口を出すことができるのは大きな責任を負える場合のみ」という考えを持ちながらも、周りの友人を傷つけるという点を考えると、小生は「世間との深いかかわりがあるうちはやはり死の権利は留保されるべき」と考えます。

まったくの他人の場合

しかし、死を選ぶことにしたひとがまったくの他人である場合はどうでしょうか。こここそが、いま小生が最も不快を覚える点です。

twitterをみていると、「死にたい」という書き込みに対して「死ぬな!!」とか、「簡単にそんなことを言うんじゃない!」というリプライをみることがあります。

この場合も、「死ぬな」という側が死の選択者を救い出す大きな責任を果たせる場合は口をはさむ権利はあるかもしれません。選択者が他人からの支援を受けるかは別ですが、言うことは認められる気がします。

しかし、友人の場合に考慮し得た留保の条件は、機能しないでしょう。そのひとの死が、止める側へおおきな傷を与えるとは考えにくいですから。

この場合の止めたがる人々は、もう「自分が正義」であるという感覚に酔っていると感じられてならないのです。

止める人の常套句に、「生きたくても生きられなかった方がたくさんいるんだから」がありますね。

しかしそれは、死を選ぶひとに何の関係もありません。その方の「生きたいという想い」を大切にしながら、選択者の「死を選ぶ権利」は否定するというのもおかしな話です。そもそも、選択者の死は制止者とは何の関係もありません。

「死とは悪いものだ」という考えに基づいて、自分の正義を振り回して他者を巻き込むのはさぞ気持ちのいいことでしょう。しかし、それが正しいことかというと、どうもそうとは思われないのです。

というわけで、我々が他人の生死に口を挟めるのは、まったくの他人に対して大きな責任を負うことができる場合に限られるように思います。

まあ、そんな場合が存在するようにも思われないから、こんな場面を見かけると非常な不快感を覚えるのかもしれません。

おわりに

いかがでしたか。

今の日本では、「どうして自殺なんてするんだ」という声をちらほら耳にします。しかし、果たして他人が文字通り命をかけて選択した「死」に対して、ほかの人々はどこまで干渉できるのか、そんなことを考えているのです。

太宰治の『斜陽』で議論されるべきはここではないのかもしれませんが、小生には大切なことに思えてならないのです。

先にも書いたように、ここに示したのは今この瞬間の小生なりの考えです。みなさんがどう考えるのかを聞きながら、今後もっと深く考えていけたらと思います。

こんなことを考えてしまう小生を「イタい」と笑うもよし、拡散して晒すもよしです(笑)実際、自分でも『斜陽』にかぶれている気はしています(笑)

シェアやコメントお待ちしております。

それでは。

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